舞台「朱雀家の滅亡」レビュー #木村了

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 「髑髏城の七人」同様、10/10に千穐楽を迎えまして、私にとっても楽日でござんした。今回は3回”しか”足を運びませんでしたが、物足りないような気もすれば、これ以上行くにはキツかったような気もします。とにかく、カタルシスのない迷路の中へ迷い込むような舞台なだったので、演じているキャストの皆さんは当然ですが、見ている方も相当のエネルギーが必要でございました。

私は今年の初めにKAATで観た「金閣寺」に続いての三島作品。
パンドラの箱を開けてしまった気がしますね、ミシマ作品って。箱の縁から真っ暗闇の深淵を一生懸命覗きこんでいるような感じでして、決して模範解答など用意されていないんです。表面的には耽美的で流麗な言葉が紡ぐ心象表現に酔いしれているのですが、その実は語り尽くせない複雑さと拒絶したくなるような絶望、悲哀、畏怖におののいてしまう。

とにかく、天才ってことで(軽くまとめんな!!)。

「朱雀家の滅亡」でも、「金閣寺」同様に徹底した女性隠避の姿勢が貫かれています。それほどまでに拒絶したいのに、ストーリーのド真ん中に”女性”がいるわけですよ。まさに、ここが三島由紀夫たるゆえんかと。

朱雀家は代々弁天様を祀る琵琶の家。なので、嫉妬深い女の神様は結婚を許さないわけですね。でもって、弁天様といえば水神=海と言えば万物に生を与え育む女性の象徴、でもあります。なので、朱雀家は海のほとりに建っている設定です。

コの字型に舞台を囲むように客席がしつらえてあって、それに呼応するようにステージ正面の一番奥に鳥居を模した四角い赤い枠が設置されていまして、他にセットと言えば4客の椅子を備えた大きなテーブルと、リクライニングチェアのようなイスが2脚、そして女中用の椅子のみというシンプルな板の間でした。

この鳥居がですね、不思議な作用をもたらすんですよ。
とにかく、暗闇にポッカリと赤い鳥居があるもんで、鳥居を見ていると残像が残るんです。なので、鳥居から目を離して別の場所でセリフを言っている役者さんを観ると、鳥居の下に立っているように見えるんです。残像にピッタリと姿がハマっていて(分かるかなぁ~)。まるで弁天様に囚われているかのように見えてしまいました。

この舞台には確固たるミシマの戯曲があるので、脚色は最小限にとどめられていると推察します。しかも、ミシマの美しい言葉の絢を際立たせる為に、身ぶり手ぶりも抑えられているので、結果的にセリフのみで進行していくのですが、これはさぞ難しいことと思います。舞台ならではの「オーバーアクション」に、一切頼れないわけですから。

國村隼さん演じる朱雀経隆(つねたか)は、もともとが感情を抑えた人間なので、終始お芝居もフラットなのですが、彼こそが狂気の根源ですから不気味なんです。結局、この家に生を受けたこと、それ自体が滅びの始まりなワケで、朱雀家は元来が滅びる為の家なんですよね。だって、妻を娶れない家系なんて滅亡するしかないじゃないですか?結婚しないで”わき腹”で子孫を遺していくしか継承のすべがない家柄なんて、産まれながらに滅んでいるに等しい。そして、そのわき腹の負い目を一生担いながら、狂信的なまでにお上(天皇)に尽くす
侍従職なんて、名ばかりは華族でも、ちっとも華やかな人生なんてもんじゃない。

木村了くん演じる朱雀経広(つねひろ)は、父親の経隆そのものであり、決定的に朱雀家を滅びに導く最後の人物です。父を尊敬し、その期待に応えるべく、また、己の恐怖心と弱さを隠す為に、敢えて戦争の只中に身を投じます。それこそが究極にお上に仕える術であり、すなわち朱雀家嫡男として滅びる為の最善策なんでしょう。現に経隆は戦死した息子を”英霊となってお上の近くにいった”と息子を神格化して称えます。ただ、ひとり、経広の産みの親であるおれいだけが、この朱雀家の狂気を見透している。

ここに、自衛隊市ヶ谷駐屯地で割腹自殺を図った三島由紀夫の姿がチラつきます。

出征前夜に、母親のおれいが息子を激戦地に送ることを何とか回避しようと画策します。その余すことない愛情に触れた経広は、罠にかけられ、名誉を傷つけられたと激昂し、おれいをこれでもかと罵倒します。このシーンの木村了くんは、私が最初に観劇した9/23の時点ではセリフを吐き出すのが精いっぱいという感じでしたが、その後、回を増すごとに抑揚と感情を載せてきて、心底憎々しくなるのですが(笑)、汗をダラダラ流して罵詈雑言を浴びせかける姿は、臆病者の遠吠えに過ぎないのだと分かってくると、ただひたすら哀しくなって涙すら誘うんです。

また、何回か見ているうちにセリフの裏に隠された真意が分かってきたり、その見事なまでの比喩を堪能できたりするようになるのですが、同時に美しい言葉じりだけを追っていただけでは読み切れない舞台であることも確かでした。

例えば、経広が冒頭のシーンで、璃津子と庭に出て海を見ようとするシーン。静かな海の沖では今日も夥しい血が流れていると言い「日が沈むまでには、まだ間があるんだね」というセリフがあるのですが、このセリフには日本の敗戦と自らの滅びとが包含されているように聞こえます。こんなの序の口で、特に経広のセリフには深い意味が隠されている表現が多いように思えました。

木村了くんは身を削って全身全霊で経広を演じていましたが、正直、これほど未完成な彼を見たのは初めてでした。お芝居に答えが見いだせていないことが伝わるような「もがき」を感じました。私がいつも舞台で見る彼は、誰よりも完成度が高く、誰よりも堂々としていて不安に感じることなど一切ないように見えるのですが、今回は違いました。ファン目線ですらそう思うのですから、玄人好みのミシマファンの皆さんは、いろいろ言いたいこともおありでしょう。ただ、経広という人物それ自体が未熟で非力な存在なのですから、私は木村了は身をもって経広を体現できたのではないかと思うんです。この役を完璧に演じられる”若手”を探すのは至難の業だと思うし・・・。

しかし、どうしても解せないのが、この舞台で一番重要なポイントでもある↓ココ↓なんです(本をお持ちの方はP181をご参照くださいませ)。

・・・私は御前に伺候して、事の落着を言上した。お受けになるお上の御目にお慶びの色を臨んだとしてもふしぎはあるまい。しかし、何も仰言らなかったが、そして私にだけはわかるのだが、その一瞬、お上の御目には一点お悲しみの色があった・・・わかるかね。それが私のお暇を願い出た原因だ。お上のお心はこう仰せ