舞台「金閣寺」レビュー #kinkakuji_kt #v6

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遅まきながら観劇の感想をば。
今回、森田剛くん主演舞台の脇を固めるキャストがとても気になったので(笑)、ジャニーズさん枠とSDPさん枠を駆使して2度ばかりお邪魔しました。1回はハーレム代表として剛くんを見て、もう1回は個人的に高岡蒼甫&大東俊介の「クローズZERO」キャストを見る為に、でございます、にゃはっ。
もう、すっごく劇場が遠くて敵わんな~と思いました(苦笑)。KAATのこけら落としということでしたが、新しい劇場は想像よりも遥かに立派な建物で驚きました。コンサートホールのようで、かなり存在感のある劇場ですね~。しかも、劇場入口が5Fにあるので、エスカレータをぐいぐい上がって行かないとたどり着けない(汗)。エレベーターが混んでいなければ、そちらの方が便利です。
初見は舞台が始まってから間もない頃だったのですが、なんと席が前2列つぶれていた為に驚異の3列目。ちょっと上手寄りだったんですが、冒頭のシーンでは目の前の階段に大東くんがちょこんと座り・・・いや、これがホントまん前でして、ヤサコロ並みに恥ずかしかった。でも、せっかくだからジロッジロ見ちゃいました!
宮本亜門さんの舞台は初めてだったので、いつもこんな調子なのか?、それともたまたまなのかは判断がつきませんが、かなり前衛的かつ挑戦的でした。題材が、もはや「古典」となりつつある三島由紀夫作品なので、それを宮本亜門カンパニーのまな板の上でヌーベル・キュイジーヌ並みに料理された感じとでも言いましょうか。
まず、セットが教室なんですよね。上下にスライドする黒板があって、机があって、本棚があって、天井に蛍光灯が下がっているような、典型的な昭和な(金閣寺の劇中舞台というよりは、それよりもっと遅い、多分亜門さんが育った時代の昭和な)教室なんです。
芝居も原作の朗読から始まり、劇中でもト書きを読むように随所に朗読が混じるのですが、授業を受けているようで非常に興味深かったです。セットの一番奥にある黒板に向かって我々観客は座っているので、ミシマを学んでいるかのような錯覚に陥るんですよ。それは、会場に入った時から感じるんです。なぜかと言えば、お客さんが会場の中に入ると、演じているような雑談しているような感じで、既にアンサンブルがステージにいるんですね。朝、登校してきた感じに良く似ているんです。教室に入ると、先に来てるクラスメイトが話をしていたり、本を読んでたりするじゃないですか。まさに、そんな雰囲気でして。そこに自分が加わっていく感覚なんです。
で、生徒(=観客)が揃ったところ(開演時間)で、メインキャストが出て来てブザーも暗転もなく芝居(=授業)が始まるんです。これは幕間の時もそうで、これまで観た舞台のように「さぁ、ここが1幕のクライマックスよ!ジャジャーン」っていう見せ方じゃなく地味に終わるんで、アナウンスがあって初めて休憩なのか~って感じ(笑)。2幕が始まる時は、剛くん演じる溝口がするすると廊下から教室に入ってきて電気を消し、暗転させて始まる。つまり、客席とステージが連動しているというか境目がないんです。目の前で観ているお芝居は、国語かなんかの授業中に生徒が夢想しているような気分。
って言うのは、パンフも購入していない私の勝手な解釈ですが・・・。
その境目のない舞台上で進行していくお芝居はと言うと、かなり”変わって”いて、あくまで教室の中でストーリーが進んでいくのでセットはずっとそのまま。例えば階段を上る場面では、教室にある机や棚を立てたり横に寝かせたりして起伏をつけて、そこを上る。道はライトがスッとステージ上に描き出した光の上を導かれるように歩く。天井に吊るされた蛍光灯のコードがステージに接触するまで下に降りてきて林を演出したり。アンサンブルは時折黒子のようにセットの一部として存在していたり・・・と。
で、舞台の後半、鶴川を失った溝口は孤立します。舞台のセットにも同様に床に溝が現れてて、まるで氷山のクレバスのようにステージを分かつんです。足元をギャップに遮られた中で演技が続くのですが、これもまた溝口の心情が具現化されているように感じました。
金閣が炎上するクライマックスでは、燃えさかる焔を模したオレンジ色のライトに照らされながらう、まるで建物が焼け落ちていくかのように教室のセットが取り払われていき、何もないスタジオのような姿が露わになります。
そして、極めつけは金閣の擬人化。金閣寺の屋根の上に載っている鳳凰を人間が演じているんです。この方が放つ不思議なホーミーが、溝口を時に慰め、孫悟空の”緊箍児(きんこじ)”のように時に戒める。そして、この金閣が溝口が言う”内界と外界”を遮っています。
この、内界と外界の境という例えは言い得て妙です。この作品の全てを言い表していると思うんですよね。詳しく説明するとヤボなので避けますが、溝口の精神性をすべて表現していると思います。
あと、この舞台の他とは明らかに違うところ。音楽が滅多に使われません。サンプリングのような無機質なほんの短いチューンしか使われていないのですが、それでも効果音はかなりあるんです。獅子おどしの音とか木魚の音、列車の走行音などは、すべて一風変わった個性的な現代的な音でした。
高岡蒼甫くんは、前の席で観た時よりも2度目に15列目のほぼ真ん中の席で観劇した時の方が男前でした(笑)。余り近づきすぎない方が存在感が感じられるかも。近すぎると、私自身の目が「柏木<蒼輔」っになってしまうようで(笑)。大東くんは透明感のある鶴川という役どころを等身大で演じていて好感度高かったです。多分、今の彼だからこそ、鶴川の光と闇を表現できたのではないでしょうか?強烈な個性があるでもないし、思ったほどの男前度でもなかったんですが、存在自体が観葉植物のように清々しいし、そのお仕着せのない姿が舞台にするっと溶け込めていて、今後もどんな舞台もこなせそうな可能性を感じました。色も白くてスベスベだし(笑)。
剛くんは全く持って言うことなし。森田剛という存在が舞台上から消えています。全ての要求に応えられる柔軟さを持っている。溝口は時に聡明で、時に耽美的、従順かと思うと狡猾な一面や残酷な面を持ち、そして常に己の身体と精神に深い葛藤と恥辱を抱えている複雑な人物。それを、剛くんは足すでもなく引くでもなく、そのままに演じてくれました。
しかし、最も驚くべきは原作ですよ!
舞台に多分に朗読が引用されていたので、それで文章そのものに興味を持ったのと、柏木の何とも哲学的な講釈に感銘したので原作小説を読んでみたいと思ったんです。まだ、読んでる途中ではありますが、つづら折りになった美しく退廃的な表現の数々に圧倒されています。日本語の雅さや芳醇な表現力の深みにうっとりした刹那、描かれている場面そのものは底なし沼のようにドス黒く絶望的でもあることに気付くんです。三島由紀夫は間違いなく天才だったんだなぁ~と、今さらながら感服しています。
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