だいぶ遅くなっちゃいましたが、やっと見てきました!
興行10日目という、ちょっと節目のレディースデー。
すでに、このシネコンでは最少の80人キャパのスクリーンでの上映となっていて、客足は3分の1といったところ。この分だと最終興収の見込みは3~4ってところでしょうか。
角川映画ですのでね・・・。
あまり、ハイ飛車に目標たてなければ良い作品が提供できるのでは?
という、まさしく、そんな感じのする映画でした。
太宰治の原作小説は、松ケンが一昨年にカドカワのキャンペーンキャラになった時に、彼のカバー欲しさに4冊ぐらい文庫本を買ったんですけど、実際に読んだのはこれだけでした。
若い頃から小説が苦手だったもんで、ついぞこの年まで太宰作品は1つとして読むことなく過ごしてきましたけど、太宰自身の余りにもドラマチックな生き様には少なからず興味を持っていましたし、太宰の自叙伝とも称されるこの作品を買う羽目になったのは、きっと何かのお導きだと思って読んだんです。
もう、あきれるぐらい鬱蒼とした小説でしたけど、ね。
反面、現代でも全然いるよ、こういうオトコ!と思える”生身”の小説だな~とも思いました。
で、映画の話ですけども。
JUGEMテーマ:生田斗真
失礼ながら、まったく期待はしていませんでした。
脇を固める豪華すぎる女優陣も、”生田斗真初主演”という、世間的には無名な彼が主役を張ることの補填の意味合いなんだろうと思っていましたし、ジャニーズファンだというひいき目をもってしても斗真くんではいささか心もとないと、観る前からそう決め込んでました。
どうしてでしょうねぇ?
斗真くんは決して嫌いなタイプの男性ではないし、スタイルもいいし、全くもって及第点な人物なんですけど、若い頃から多くの作品を見過ぎてしまっていたからかもしれません。
なんか、彼にはもう”伸びしろ”がないんじゃないかなーって思ってしまっていたんです。
「ネバーランド」、「スサノオ」、「イケパラ」、「魔王」、「魔女裁判」、「ヴォイス」・・・どれもこれも、暑苦しく”がなって”ばかりの役回りで、それがすっかり彼の役者としてのイメージに変換されていました。
そんな、エネルギッシュかつ健康的で意気揚々とした斗真くんに、内省的で繊細でだらしない葉蔵が演じられるのだろうかと?
役って、本来の自分に何かをプラスしていく作業が多いと思うんです。
アクションだったり、知識やテクニックだったり、コミカルさやニヒルさなんかもそうですけど、自分にない要素を上に盛っていくことが多いんじゃないかと思うんです。
でも、この「人間失格」の葉蔵は、マイナスしていく役でして。
笑顔は不要、声のトーンは低く、感情も抑えて、生気なくヤル気なく将来もない。
有り余るほど持て余していた金もなくなり、自分は死にたくても死ねないのに人を死に追いやる・・・の、ひたすらのマイナス人生。
でも、斗真くんは見事に演じてましたね。
映画のエンディングで、インパクトのある白髪頭のクローズアップ映像の後、画面が暗転して斗真くんの名前が一番最初にクレジットされたのを見た時には、薄ら涙が出そうになりましたよ。
「やったね~、斗真!」という気持ちでした。
彼の容姿はスクリーン映えしますね~。
不思議とあのルックスがうるさ過ぎず溶け込んでいたのは、やっぱり監督の料理の仕方も巧かったからではないかと。エンディングロールで葉蔵の記念写真がモノクロで次々映し出されるんですが、どれも堅い苦悩した表情なんですけど、でもとてもフォトジェニックで美しいんですよ。
荒戸監督と、しかも角川映画で!初主演映画が撮れたのは、斗真くんにとっては良いスタートだったんじゃないかな、と思います。今後公開される「シーサイド・モーテル」にも期待が持てそう。
映画はヨーロピアンなアングラさを漂わせていながらも、和洋折衷な日本映画ならではの映像美に溢れていて、余り多くはないセリフの一片を担ってもいる映像表現は、時に間接的であり、時に直感的で、音楽とも絶妙にマッチしながら昭和初期の混沌とした時代を豊かに伝えてくれていたと思います。文学作品をそのまま「文学作品として」映像で表現できるものなんだな~と感心しました。
小説を読んでいる時には全く思いもつきませんでしたけど、デカダンスの象徴「ドリアングレイの肖像」や、村上春樹の「ノルウェイの森」にも通じている部分があるな~と感じました。
欲を言えば、そのデカダンスな部分がもっと男女の絡みとして強烈にあっても良かったかもしれない。初主演で、しかも25歳という斗真くんの最も美しいであろうお年頃を考えてみたら、R指定になってもいいから、もう少し翻弄し翻弄されるドロドロな恋愛模様を前に出しても、チャレンジとしてはアリかな。芸術作品として仕上げたかったのかもしれませんけど・・・。
そして、原作にはない薄幸の詩人・中原中也を演じた森田剛くんも、これまた期待を裏切らないインパクトのある役柄で、映画にしっかりと焼印を残していってくれましたね。
中也が言い放つ「茫洋、茫洋」というセリフは、この映画すべてを言いつくしているように感じました。
2度の自殺を経て津軽に戻った葉蔵が、死出の旅に出る汽車のシーンはファンタジックで、ちょっとハリウッド的。日中戦争に出兵し殉死したであろう兵士の会話は非常に切なく、桃の枝を掲げて登場する死びとの中也の姿もまた、葉蔵に彼の余命が長くはないことを暗示していて・・・。
葉蔵の思い出が列車のあちらこちらで走馬灯のようにフラッシュバックして、映画の冒頭とラストでリンクするバーのシーンへとつながり、「ただ一切は過ぎていくという」セリフで幕を閉じる。
彼にとって、故郷も家族も、お金も友人も、酒も薬も女たちも、一切はただ彼の目の前を過ぎていっただけ。結局、葉蔵はそれらとはついぞ適合することができなかった。
受け容れられなかったんじゃない、受け容れなかったんですよね。
・・・そんな人は、やっぱりこの平成の世でも”人間失格”だよね~。