仲間のうららが、今年はマッチのデビュー25周年記念にちなんで懐かしい話を披露しているようなので、ヨッちゃんファンだった私の側からも、近ちゃんとの忘れられないエピソードを書いてみたいと思います(だいぶ昔の話なので、多少記憶違いもあるかとは思いますが・・・)。
時は1986年の11月も後半に差しかかった頃だったと記憶しています。
その頃、私は近ちゃんファンの友人と共に「3年B組金八先生」の年末SP版のロケを見に荒川の土手にいました。順調に進んでいる様子だった撮影でしたが、あまりにも突然中止になったんです。天気が悪くなったわけでもないし、何か問題があったようには見えなかったので不思議に思っていると、義男が「今日はもう終わりだよ」と教えてくれました。彼の表情がとても強張っていたのを覚えています。
私たちもそれぞれ自宅に戻ったのですが、夜になって一緒にロケに行っていた友人から電話があり、なぜロケが中止になったのかを知りました。「マッチのお母さんが交通事故で病院に運ばれた」・・・友人は涙声でした。
翌朝、テレビのワイドショーを見ると「マッチの母親事故死」のニュースが流れていて愕然としました。
亡くなったんだ・・・。
マッチのお母さんはまだ40歳そこそこぐらいだったんじゃないでしょうか?すごく若いお母さんだったんですよね。とてもショックでした。
しかも、もう年末だったのでスケジュールは相当な勢いで埋まっていて、近ちゃんは仕事を休めるような状態じゃなかった。ニュースが流れた翌日には日本青年館でレコード大賞部門賞の発表が行われる予定でしたし。
とにかく、母親思いの近ちゃんが心配で青年館に駆けつけたい思いはあったのですが、当然ながら既に番協枠は埋まっていましたから、友人に託してテレビを見ることにしました。ステージに登場した近ちゃんは涙で膨れ上がった瞼と赤い目をしながらも堂々と「Baby Rose」を歌い上げました。会場のファンもみんな泣いていたし、みんな精一杯の声援を送っていて、司会の方さえも涙声でした。それまではヤンチャで、言いたい放題、やりたい放題という印象が一般的だった近ちゃんでしたが、この日ばかりは誰もが彼の「プロフェッショナル」な姿に感動したことでしょう。私は今だに織田哲郎さんが書いたこの「Baby Rose」を聴くたびに涙が出てしまうんです。義男も近ちゃんとは泊まり合ったりした仲だったので、葬儀の際には棺に倒れ込むようにして悼んでいた姿が忘れられません。もしかしたら近ちゃんよりも義男の方がしばらく立ち直れなかったかも・・・。
そして、近ちゃんは残っていた金八先生の撮影を続行し、12月のオンエアーに間に合わせました。武田鉄也さんも彼のプロ根性には感服したと当時コメントしてましたね。このドラマは「先生の暴力・生徒の暴力」というタイトルですが、ご覧になられる機会がもしあったら、腫れぼったい瞼のままで熱演している彼の姿を讃えてあげて欲しいと思います。
その後、お母さんの遺骨が盗まれてしまうという最も悲しい事件も起き、これについては、その後どうなったのかは今では知る由もありません。一見するとお気楽そうな彼ですが、母親の死だけではなく父親や弟との問題もあったし、同世代の私たちなんかよりも、ずっと苦労人なんですよ。そんな影すら全く見せない今日の彼の後姿を、後輩たちはどんな風に見つめているのでしょうね。