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いのうえ歌舞伎☆號 
written by ミリオンダラ子


ストリートプレイ

今や、特にシアターファンでなくても「劇団☆新感線」の“一般的なイメージ”というのが割と広く知られるようになってきたのではないかと思います。ジャニーズさんもドラマや映画で新感線の役者さんたちと共演する機会が多くなりましたし、何よりも客演として呼ばれる機会も多いですからね。特に劇団ファンでない私でも今回が3作目となりました。「スサノオ」、「荒神」、そして今回の「IZO」。
当然のことながら、新感線らしいヘヴィーメタルの爆音につつまれ、鮮やかでダンサブルな殺陣と、愛すべきキャラクターに満ちたお芝居になるのかと、これまでの経験を頼りに観劇に臨みました。

アレッ・・・?!。
と、30分くらい経過したところで最初の戸惑いが訪れました。
あ、いや、でもこれからなんだろうな。
漠然とした思いの中で、過去の観劇で培った予習・復習からの期待値とはどんどん外れていく展開。
生粋の、そして緻密なストリートプレイを目の当たりにして、ハッキリ言って落ち着きませんでした。
違い過ぎる・・・、これが新感線なんだろうか?と。

そして、上演1時間20分ほどで25分間の休憩。
とにかくパンフに目を通さなきゃと思い慌てました(汗)。
せめて演出家のインタビューは読んでおいた方が良さそうだ、と。観劇中に確認作業するなんてことは初めてです(笑)。でも、この休憩の間に確認しておかないと、私はこのまま「いつもの新感線」を待っていればいいのか、それとも今見ているものをそのまま受け入れたらいいのか不安だったので、貪り読んでしまいました。

読んでスッキリです。
そっかー、これは“いのうえ歌舞伎”なんだ!
確かに太鼓の音とか、ツケの音、下手(歌舞伎なら花道)での演技が多いところは歌舞伎っぽいな〜と感じていたところでしたが、あくまでも新感線の、いのうえひでのりの歌舞伎はこうなんだと。それが解ってからの二幕は不安がサッパリと払拭されたので、邪念なく没頭して観ることができました。
舞台の妙

今回“リアル”を追及したといのうえさんが語っていたように、まさに「IZO」は舞台というよりは、むしろ映画やドラマをライブで見ているかのような錯覚を覚えました。場面や季節はくるくると変化し、舞台とは思えないほどの転換の多さには驚きました。廻り舞台も回れば、キャストも回る、回る・・・(笑)。
当然、舞台ではセリフを喋っている演者に観客の目は向きます。その横で言葉を発していないキャストもかなり重要な「体で表現する芝居」をしているんです。テレビや映画ならカット割りできるところを、同時進行しているわけですから、剛くんにばかりうっかり気をとられていると、田辺誠一さんの何とも言えない狡猾な表情なんかは見逃してしまうことになりかねない。でも、現実の「場」というものを考えた時、これが自然ですよね。すべてが同時進行なワケですから。そう考えると同時進行をタイムラグなしで表現し得るのって、やっぱり舞台しかありえないし、言い返るとこれは舞台の最大の武器なんだな〜と、今回改めて認識しました。舞台のおもしろさってこれに尽きるのかも。

衣装・セット・効果
さすがに青山劇場となると、お金もかかってますよね。セットの転換数もそうですけど、衣装もシンプルながらかなり点数は多いですし、新感線ってこんなにお金かけて芝居作るのね・・・とちょっとした動揺も。
そうそう、まず開演前に会場に入ると、緞帳代わりに剛くんのモノクロの映像がスクリーンに映しだされているんです。フライヤーで使った写真らしいんですが(パンフレットにも載っています)、これがよだれが出るほどセクシーでして、腰が抜けそうになりながら席につきましたよ〜(笑)。
そのスクリーンは和紙の風合いを持たせてあって、劇中では描ききれない政治的なイベントやストーリーの進行を映像で語るという役割で多用されていました。幕末のめくるめく時勢の趨勢を、時間軸を整理しながら、しかも客を混乱させず、限られた場所と時間で表現するには限界がありますから、スクリーン(映像)に頼らざるを得ないんですよね。クリーンの映像をセットに見立てるのは効果的だったと思うんですが、急ぎ足な字幕の説明は、時代劇に不慣れな方には返って難解だったかもしれませんね。

人が斬られる時の血飛沫や、斬られた瞬間に刀傷が見事にザックリ割れたり、着物が破けたりと、キャストがおそらく操作しながら演出しているんだと思いますが、とにかく人の死に様が酸鼻を極めていて、リアルなんですよ。でも、これって緊張感ありますよね〜、タイミングを逸したら台無しですから。以蔵が二幕で土佐藩の井上佐一郎を橋の下で絞殺する場面なんて凄惨そのものです。斬りつけた上に首を絞めて殺す、井上は泡をふいて絶命するわけですが、目を覆いたくなるような場面でして、いかにも人が死ぬ、殺されるということはこんなにも惨たらしいものなのかとゲンナリしてしまいます。


脚 本

脚本家の青木豪さんは今回新感線に初めて書き下ろしたそうですが、これが果たして新感線らしいのかどうかの議論はコアファンに任せておくとして、一見さんの私にとっては舞台の脚本とは思えないほどの緻密さと、紡がれる言葉の美しさと潔さに感服しました。まるで、ひと綴りの小説を読んでいるかのようです。舞台のテーマって(演技と同じで)、どうしても伝えることがシンプルになりがちで、ストレートに万人に理解できる表現を用いることが多いと思うんですが、「IZO」は単純な1本の起承転結で舞台が構成されているのではなく、幾つかのストーリーが同時進行していく中で、それぞれのストーリーに起承転結を盛り込んでいて、最後にひとつに集約されるという、本当に映画っぽい脚本なんですよね。とかく難解になりがちな時代背景を、巧くキャラを立たせて場面に和みを持たせていたのは、いのうえ演出の得意とするところでしょうか。

一幕での最大の見せ場は、幕終わりで4人の与力(与力というのは今でいう警官みたいなものだそうです)を暗殺する場面。まさに “人斬り以蔵” のイメージ通りで、狂気の形相で斬りまくる姿が圧巻です。
セットも平面だけでなくY軸も駆使した廻り舞台でスピード感を出し、時代劇らしい血しぶきと絶叫に満ちた地獄絵図のような場面で、武市の指示ではなく独断で切り込んだ以蔵はこれからどうなるんだろうという余韻を客席に残して幕が下ります。

二幕では以蔵がどんどん落ちぶれていく様が描かれて行きますが、以蔵は実直なまでに自ら進んで武市のイヌに成り下がろうとします(以蔵自身は、これを“成り上がり”だと信じているのですが・・・)。武市はそんな以蔵を次第に疎ましく思うようになります。こんなに誠心誠意尽くしているのに以蔵の何が気に入らないのかと、見ているこちら側もじれったくなるんですよね。こうして観客側の感情がコントロールされてしまうのには、やはり脚本がじっくりと若き日の姿から描かれているからなんだと思います。ややもすると、退屈にも感じた一幕冒頭の土佐時代のエピソードが、以蔵という人間を語る上でこの舞台には必要だった、観客を感情移入させる為の手段だったんだと気づかされます。
大きな見せ場は2つ。ひとつは、いつ武市が京に戻ってもいいように、乞食同然のナリで潜伏している以蔵の下に、とうとう武市は腹心を放って以蔵を葬ろうと試みようとするくだり。以蔵の潜伏先に毒入りの酒を持って行くのですが、運悪くここに戸田絵梨香ちゃん演じる、以蔵の幼馴染でほのかな恋心を抱いていたミツが居合わせてしまい、二人はままごとのような三々九度で盃を交わします。楽しそうな以蔵とミツの表情とは裏腹に、酒を口にしたら双方とも死んでしまうという絶望感に満ちたスリルのある場面で、何とも言えない悲哀が客席を包みます。無邪気な会話の中に漂う救いようのない惨めさ。でも、ここで命を落とすのはミツだけなんですね。このあたりの展開は、実際に語り継がれている武市の以蔵暗殺説を巧く脚色したドラマチックな見せ場です。

そして、この舞台で随一秀逸なのは、ラストシーンで以蔵が言い放つ「オレの天は武市先生、武市先生の天は容堂様、容堂様の天は徳川様、みんなに天がある。でも、天は動くんだ」という、まるでシェイクスピアの戯曲のようなセリフがあります。これは、以蔵が単に無知なだけの男ではなかったことを物語っていますよね。もしくは、無知にも“悟り”はあると言うべきでしょうか。このセリフを剛くんは涙をボロボロ流して言うんですよ。なんか、彼が舞台で涙を見せるなんて考えてもいなかったので、驚きと同時にズーンと胸の奥底に重くて冷たい鉛の球が落ちたような圧迫感を感じました。

演 技

とにかく、武市半平太役の田辺誠一さんと、山内容堂役の西岡徳馬さんの気迫漲る演技は期待通り。嫌味な言い方をすると、ジャニーズさんの舞台って脇は絶対に裏切らないですよね。舞台の終盤、土佐藩のお白州で武市半平太が切腹する場面、西岡さん演じる容堂が大声張り上げて朗々と詰問する様は、例え百戦練磨の役者さんであると分っていても、見ているものを圧倒する気合を感じました。あそこまで行くと、もう自分との戦いだよね。田辺さんは、私の中でそれまではなんか泥臭いイメージだった武市半平太という人物を、静かな野心家といったインテリジェンスな土台に引き上げた感じがします。そのイメージは、どちらかと言うと中岡慎太郎の方かなーと思っていたので。しかし、以蔵に対する憤りを、半平太が激情をもって中傷する様は鬼の形相で何とも憎々しかったですね〜。

そして、薩摩の田中新兵衛を演じた山内圭哉さんは、舞台好きの方なら有名な俳優さんらしいですね。薩摩言葉も比較的分りやすかったし、卓越した表現力はさすがの存在感でした。なんと、山内さんって、聞くところによるとオフステージではスキンヘッドだと聞き仰天!なんか、新兵衛の姿しか見てない新参者の私にとっては逆にそのお姿は想像できないっすよ。

今回、新感線お馴染みのダンサブルな殺陣が見られなかったのは非常に残念ですけど、人の生き死にをリアルに描きたいという演出家の意向はガッチリ反映されていましたね。おそらく、実際の斬り合いはこんな感じだったのかなって思えましたし、血しぶきが飛びまくるのは少々やり過ぎとしても(笑)、実際はもっと生々しかったでしょうし、それをそのまま描いても気味悪いだけですから、斬り方も斬られ方も、そして血の飛び方もある意味フィクションとして、そして見栄えのいいようにまとめられてはいるんでしょうが、匂いまでしてきそうなほど残酷でもありました。

そこに、お公家の姉小路公知(あねのこうじ・きんとも)や、ミツの旦さんといった、新感線らしい濃くて愛すべきキャラクターが出てくることで癒しの空間ができました(笑)。余りにもテーマがヘヴィーだし、始終場面が緊張感で張り詰めているので、このお二人にはだいぶホッとさせて頂きました。もちろん、坂本龍馬役の池田鉄洋さんも同様に。


戸田絵梨香ちゃん

初舞台だというのに堂々とした演技だった、と言うのは、この舞台を見た方なら誰しも抱いた率直な感想だと思います。滑舌もいいし、声も良く出ていたし、感情表現もドラマや映画と較べてみても(舞台では演技方法も違うんでしょうけど)、わざとらしくなく、むしろ不思議なことに、いつもテレビで見ている戸田絵梨香ちゃんの味がそのまま出ていて好感が持てました。ただ、驚いたのがお顔がちょっと大きい(笑)。そりゃ、時代劇ですから髪も上げているし、額も開放しているわけですから(おまけに肌も白いし)膨張して見えちゃうのも仕方ないかもしれませんが、その分のマイナス勘定を入れたとしてもちょっと・・・(笑)。剛つんがゲンコみたいにちっちゃい頭だから余計だったかも。
彼女が演じたミツの名前は、満作の花からとったというエピソードが劇中に登場します。そして、舞台の冒頭とラストで、この黄色くてか細い花が象徴的に舞うことで、郷愁感や悲壮感を一層高めるんです。ちなみに、満作の花言葉は「幸福の再来」だそうです。・・・なんだか、悲しいですね。


岡田以蔵と森田剛

緞帳が上がって冒頭シーンは土佐に大地震が起こった直後の場面で、以蔵が叫びながら登場します。私が観劇した1/15現在、この場面で既に剛くんのノドはガラガラでした。ちょうど舞台が始まって1週間目ぐらいのところで、しかも連休で1日2回公演をこなした後、すなわち休演日前の公演だったので、体力的には1回目の山場が来てるところだったんだと思います。時折、肩をいからせて体を使って発声してましたので、かなり厳しい状態だったと思います。でも、私はこういうところで同情を寄せない人間でして(笑)、意外と厳しいというか、心配には及ばないと思うタチなんですよね〜。“心配”するのは彼に対して失礼だと思うんですよ。だって、森田剛はプロなんですから、そんなことは始めっから分ってやってるんだと思うんです。できなきゃ、舞台の話なんて請けないだろうし。だから、こちらも「声のコンディションが悪い=マイナス材料」だと思って見ないようにしてました。翔ヤンみたいにハナっからそういう声質の人間もいるんだから(爆)、そう思って見るしかないと、可哀相がって観るのだけはやめようと。
そしたらどうです!声の調子が悪くたって、森田剛は最後には観客を見事に泣かせたじゃないですか!しかも、ファンだけでなく、新感線ファンの皆さんも目頭を押さえてらっしゃる。こんな言い方したら大変失礼で語幣があるかもしれませんが、私の席の斜め前にいた剛くんファンと思われる女子は、舞台半ばで(話が難しいからか)退屈そうにモゾモゾして、後半は見るのをあきらめていました。ミニミニオジーがいたら、とっくにハサミ将棋してるって感じですよ(←分かる人が分ればよろしい・笑)。でも、着席時に新感線チケットを握っていた方たちは、男性も含め確実に引き込まれていらっしゃいました。まぁ、限られた空間での出来事で観客席全体を推し量ることは極論になってしまうのかもしれませんし、いわゆる“ジャニオタ”がみんなこうなんだとは言い切れないと思いますが、縮図を見た気はするんですよね〜。舞台ファンの方により楽しんで頂けたんだとしたら光栄です。

岡田以蔵というのは、かなりの巨漢であったという説もあるそうですね。でも、剛くんのキャスティングが決まるずっと以前から、私の中での以蔵のイメージってやっぱり小柄だったんです。やっぱり“人斬り”と言われる以上は機敏で存在感を消せる方が有利だし、特に人に遣われてるってイメージは、何となく大きな体格とは想像しにくかったってのもあるかも。どっちかと言うと土方歳三に近いイメージ・・・。ただ、うららさん曰く“剣の遣い手は大柄な男が多い”んだそうですよ。一刀で絶命させるには相当の力が必要だし、その為には大振りの刀を振り回すだけでなく、常に腰に下げていられるだけの体力が必要だからなんですって。

演出家のいのうえさんが触れていたように、確かに剛くんには独特の憂いというか、いのうえさんの言葉を借りると“居心地が悪そう”に見えますよね。これは、森田剛像を語る上で非常に的を得た表現だと思います。彼はアイドルでこそあれ、何者にも混じり合わないカラーが明確にあって、その個性を魅力的だと評価してくれる世間の目は実はそれほど多くはないんじゃないでしょうか?。グループに所属しながらも一匹狼的な存在とでもいいましょうか。V6のコアファンにはそんな風には映らないんですけどね。それでも、その孤立したイメージは、若い頃ならカッコイイ姿勢(スタイル)だと評価されてもいたんでしょうが、その頃カッコイイって思ってくれた人たちもイイ大人になっちゃいましたし、剛くん自身も年輪を経て確かに少し落ち着いてはきましたけど、世間のカが持ってるイメージの刷り込みはまだ根強く残っているようで、それがいのうえさんが言うところの「居心地の悪さ」として映っているのかな〜って。

話を舞台に戻すと、「天誅」の意味も良くは分らず、ただそれを大義名分として次々と武市の意のままに殺人を繰り返す実直一心の以蔵が最期に開眼する様子は、素直に胸を打たれます。いちいち彼のセリフや表情が心に刺さってくるんですよね。あの、無垢な黒飴のような瞳でセリフを吐く剛くんの本人像と重なっているような気がしてなりません。近年まれに見るいい内容の舞台でした!


補足: 幕末の動乱劇(by うらら)

今回、ミリダラちゃんと一緒に「IZO」を拝見させて頂きました。幕末フリークの私としては願ってもない演目ではありますが、ただ、やっぱり世間一般の方、ジャニーズファンの皆さんには、時代背景が解り辛かったのではないかと思い、私なりにこの時代を解説させて頂きたいと思います。まぁ、赤穂浪士のような仇討ちモノや水戸黄門みたいな勧善懲悪ストーリーと較べたら、大河ドラマですら幕末モノでは数字は取れないと言われていますからね、解り難くて当然なんです。

でも、若い世代の人でも慎吾ちゃんが近藤勇を演じた大河ドラマ「新撰組!」を見ていれば、知っている人物や聞いたことのある歴史上のイベントも出てきたと思うので、それを思うと、慎吾ちゃんの功績は大きかったかもしれません(だいぶ夢物語的な脚本ではあったけど・チクリ)。

でも、実は“尊皇攘夷”の思想は至ってシンプルなんですよ。言葉は難しそうだけど、勤皇派(尊皇攘夷派)も佐幕派(公武合体派)も、根底にあるのは「天皇を敬い夷狄(いてき=外国)を討つ」という思想なんです。とにかく、300年も鎖国をしていて、海外との貿易はオランダやポルトガル、中国などごく限られたところだけだったので、国際社会に対しての知識は激しく乏しかった。故に、夷狄に対して強烈な畏怖があったわけです。いわば、排斥の国家であったからこそ300有余年の間、太平の世を保ってきたとも言えるので、(現在でもそうですが)旧体制に新しい風を吹かせることには抵抗があるのは、これ必然。でも、坂本龍馬や勝海舟のような先見の明を持った御仁もいたワケで、ただ、悲しいかな、彼らは先取りし過ぎちゃったんですね。彼らのデモクラシー思想は日本にとっては10年、いや20年早かった。なので、出る杭は打たれる・・・まさに日本の横並び思考&排斥の歴史の最たる例です。

だから、最初はみんな開国したくないが為に一致団結していたんです。でも、だんだんそれに私利私欲や利権が絡んでくるので、どんどん思想は分裂して複雑に変貌していった。“野望”という言葉よりもドロドロの「欲」ですね。世情のどさくさにまぎれて、士農工商や生国に関係なく全ての野心家にチャンスが巡ってきたので、もっと話しは面倒になっていきます。

尊皇攘夷の核となった人物の生国は、いわゆる「薩長土」と呼ばれる、薩摩(鹿児島県)、長州(山口県)、土佐(高知県)の3つの藩(県)を指します。遠い昔から政治の中心は京都だったので、西国(さいごく)出身者が政治に関わることが多かったんです。そして、尊皇攘夷は結局のところ、天皇は政治の道具、革命の為の大義名分でしかなくなり、もはや天皇はそっちのけで「倒幕」か「佐幕」かの両極となりました。この時代、既に真の正義はなく、倒幕も佐幕もどちらもがテロリストであり自衛隊でもあった。と考えると、『天誅』とは果たしてどちらのサイドから見た時に本来の意味を成すのか私には疑問でなりません。

今やヒーローと謳われている官軍の薩長は、単なる己の野心のみで、力づくで“日本”をもぎ獲って明治政府を打ち立てた。幕府に仕え、最後まで将軍を護衛して治安を堅守しようと試みた新撰組を始めとする幕府軍こそが、日本が誇る真の武士道だと私は思いたいのですが、ただ、この時代、既にこの朴訥な思想は、無駄に頑固で保守的過ぎ、言い換えると世相に疎い“無知”でしかなかった。時代は流れる、天も動く、そして革命は必然。そう考えると、不器用な以蔵はどこか新撰組の姿とダブリます。彼らには政治なんてどうでも良かった。ただ、忠誠を尽くしたかっただけなんでしょう。以蔵は、夜寝る時に斬った男たちの断末魔の形相にうなされていたと何かの本で読んだことがあります。人斬りとて生身の人間。武士の一分なくして闇雲に人を殺めることは儘ならないはず。ただ真っ直ぐに生きようとしただけの以蔵は、いつしか時代の波に翻弄され、利用されていることに疑問を持ちながらも、武市に認められることのみを本望とした。自分の信念と世間の目とに大きなギャップが生まれ、きっと彼は最期まで胸の奥に “居心地の悪さ” を抱えていたのではないでしょうか?それが、いのうえひでのりさんが持った“どこか居心地悪そうに”見える森田剛くんとシンクロしたのかな。


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